歴史を学ぶと自分を理解できる

歴史から学ぶ人間関係

こんにちは。Naganomayuiです。


今回は「歴史」と「自分」との関係について
私が考えていることを書きます。


一言でいうと
歴史の読みとり方で自分のことがわかる
というものです。


この考え方は、これからの教育の方向性や意義を考えるうえで、
重要な視点ではないか、と思います。

ポイントは2つです。

  1. 「事実なんてない、あるのは解釈だけ」
  2. 「解釈は、自分の常識と対応している」

まず、皆さん

勉強の意味とは何かって、
考えたことはありますか?

いや、あるでしょう。一度は。


勉強に疲れた生徒が
「こんなこと覚えて将来なんになるんだ!」
って、言いがちな、アレです。

教師に言わせれば
「いや、それって結局、自分で見つけないと納得できないやつでしょ」
って感じなのですが(笑)


やっぱり教師なので、なんらかの答えやヒントをあげないといけないわけです。


いちばん単純かつ乱暴な答えは
「将来のため」

それ以外にも、色んな人が色んなことを言っています。


私の中学時代の担任は
「騙されないため」って言ってました。

数学教師だったからかな。



私も教員をやっていたので、
勉強の意味について、ずっと考え続けていました。

とりわけ社会科というのは、
どうしても暗記に偏りがちなので、皆すぐ嫌になっちゃうんでしょうか、
「これ覚えて何になるんですか」って、よく聞かれました。


最近、この答えの意味が、わかってきたように思うのです。

それが、
歴史の読み取りを通して、自分を理解するため
というものです。

歴史の、とは言いますが、
これは、すべての教科に共通する考えです。


順序立ててお話ししましょう。

「事実なんてない、あるのは解釈だけ」


学校というのは、事実を教える場所です。

でも、実際のところ、純粋な事実を教えることってのは、できないのです。


たとえば、小学一年生に
「太陽は東から西に動きます」と教えます。
これは事実でしょうか。

ええ、事実ではあるでしょう。

でも、より正確なことを言うと、動いているのは地球ですよね。



だから中学生には、
「地球は自転しているので、太陽は東から西に動いて見えます。ほんとうは太陽は動いていません。」と教えます。
これは事実でしょうか。

これも事実ではあるでしょう。

でも、さらに正確なことを言うと、太陽だって動いてはいるのです。

太陽系そのものが、天の川銀河の渦の中を、少しずつ動き続けているのです。
これは、もしかしたら、ご存知なかった方もおられるかもしれません。

正確には、宇宙のすべては動き続けていて、止まっているものなんかないのです。


でも、だからこそ、
どこかを固定してお話ししないと、何かを語ることはできないのです。



小学生には、
「地面」を固定して「太陽が動く」と
中学生には、
「太陽」を固定して「地球が動く」と
伝えます。

特にその分野に関心のある人は、
「実はすべて相対的」と
知ることができます。


このようにみると、いかがでしょう。
「事実」を教えるって、どういうことでしょうか

正確には、事実でなく、
「解釈」を教えているのだと、
そう思えませんか?



何かを語るときは、どこかの視点に立たなければなりません。
事実は事実として存在していますが、

語るときには、必ず「解釈」が入るのです



これは、歴史だって同じことです。

鎌倉幕府が成立した年が、1192から1185に変わったのは、
新事実が発見されたから、ではありません。

実際には、源頼朝は、緩やかに東国を支配しはじめ、少しずつ権限を拡大してきました。

1185年には、守護、地頭を設置して
1192年には、征夷大将軍に任命されます。


その流れをじっくり研究した結果、

「幕府の開始、と言えるのは、
守護や地頭を全国に配置して、支配体制を作り上げた1185年のほうなんじゃないか?」

という風に「解釈」が変わってきたのです。

そして学校では、新しい解釈で語られることになったのです。




さらに、何を語るかだけでなく、どのように語るかでも、解釈は変わります

資本家を「考えるだけで労働をせず金をもらっている」というか
労働者を「労働するだけで頭を使わず金をもらっている」というか

ナポレオンを「英雄」というか「独裁者」というか。

光を「粒」というか「波」というか

全部同じことです。



物事には数多の側面があり、どこを語るべきかは、相手や状況によって異なります。

それはすべて、
事実であると同時に、解釈なのです。



ですから、実際のところ、
教師が生徒に授業をする以上、
教師の解釈は、必ず入る
のです。

選ぶ言葉ひとつに、アクセントに、表情に、ニュアンスとして解釈が乗ります。


AとBの関係性を、日常の何で例えるか。
これは教師の解釈です。

この問題が簡単だとか難しいとか、
そういったひとことすら、解釈です。


そう考えれば、この世は全て解釈だと、
思えてきませんか?

日常をどう語るかすらも、解釈ではありませんか?


「上司に指摘され企画書を修正した」ことを
ある人は「上司のせいで作り直しになった」といい、
ある人は「上司のおかげで良いものができた」という。

それは、どちらも事実であり解釈なのです。


誰かが誰かに伝えるとき、
それは必ず解釈なのです。




「事実なんてない、あるのは解釈だけ」

まずは、お分かりいただけたでしょうか。


次です。

解釈は、自分の常識と対応している

ふたつめのポイントです。
解釈は、語る人の常識と対応しています。


先ほど、日常の例を出しました。


「上司に指摘されて企画書を修正した」

これは、人によって、解釈が異なります。


もちろん、状況にもよりますが、
「上司のせいで」といつも考えている人は、
いろんなことを、他人のせいにする癖があるかもしれません。

物事を解釈する見方には、
人によって、パターンがある
からです。


たとえば、童話『少女ポリアンナ』は
すべての出来事に対して、「いいとこ探し」をする女の子が主人公です。

ポリアンナは、全ての物事をプラスに解釈する癖を持っている、と言えるでしょう。

私は、起こったこと全てを、自分に必要な事件である、と考える癖を持っています。

人によっては、起こったこと全てを、マイナスに受け取る人もいるでしょう。


それは、これまでに生きてきた経験や、
今置かれている立場や、
身近にいる人間によって変わるでしょう。


こうした人々が、同じ歴史を見たとき、
解釈がかなり変わってくる
と思いませんか?


ポリアンナは、きっとナポレオンのいいところを探し、英雄だと言うでしょう。

会社員は「資本家が金を得るのはずるい」というし
起業家は「資本家が金を得るのは努力の成果だ」というでしょう

アメリカ人の知り合いがいる人は、アメリカに親近感を持つでしょうし、
ムスリムの知り合いがいる人は、「イスラム教は怖い」とは言わないでしょう。


彼らが同じ歴史を語るとき、
語られた歴史は、ほんとうに同じものになるでしょうか



絶対ならないでしょうね


「解釈は、自分の常識と対応している」

これも、お分かりいただけたでしょうか。



これを踏まえ、
「これからの時代に歴史を学ぶ意義」を
考えてみます。

これから歴史を学ぶ意義とは

歴史というのは、戦前は「国の理念を理解するため」だったわけですが、
戦後にその方針が消えた後、代わりとなる「何のために」がなかったように思います。


ちょうどこれから歴史総合が導入されます。
それにあたって、「何のため」を考える必要があるのだと思います。


私はこのブログで、
「世界を解釈することを通して、身近な世界への解釈を自覚する」
ことを提唱しています。


世界と生活は、規模が異なるだけで、同じ構造です。
なぜなら、国も職場も教室も友人も、すべては組織だからです。


ですから、
「国や世界レベルのものごとを、自分がどう認識するか」
「どこに親近感を覚えて、どこに批判的になるか」

これらを通して、
「自分が、家族や友人や先生に対して、どういう認識を持っているか」
「自分が、どんな立場に立つ癖があるのか」
といった、身近な認識に気がつくことができるのです。


ちょうど今後の教育は、主体的・協同的かつ、思考を重視する方向にあります。

事実は機械に覚えさせ、それを人間が組み立てる時代です。


では、機械にできない解釈をさせれば良い

その解釈の違いによって、
自分と隣の席のクラスメイトに、
目に見えない断絶や、根底の結びつき、
同じコンプレックスや、違う視点があることに気がつく。

ひとりひとりに
オリジナルの世界があるのだと知る。


それはとても素敵なことだと思いませんか?



一人一人が、自分の周りの世界を理解する。
その材料として、歴史を使えば良い
と、私は思うのです。



実際、歴史総合の学習指導要領には、
「解釈を比較する」という指導スタイルが示されていたりします。

歴史を解釈することは、
タブーではないのです。




私は、歴史を知ることは、自分のまわりの世界を知ることだと思っています。


皆さんはどう思われますか?

考えたこともなかったのならば、

これからは
ただ「知って満足する」のではなく、
知って感じたことを、
身の回りの世界に当てはめてみてください。

ほんの少し、世界が違って見えるかもしれません。


それでは。

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